遠くで電車の聲がする

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 電車旅に出たい。

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 秋雨のしとしとと降る中、海の見える私鉄に乗って何処ともしれない地へ赴くというのがいい。
 いや、いっそのこと、眠っていてふと気付いたら誰もいない電車にがたん、ごとんと一人きり――なんて始まりなら、なお良いかもしれない。
 きっと最初は状況も何も把握出来ないのだろうが、良く出来た夢かと納得して落ち着く。明晰夢という奴だ。ポケットをまさぐれば切符も入っている……けれど、はたと見るとその切符は真っ白で行き先も料金も何処にも書いていない。一瞬不安になるが、夢なのだしそんなことは構わないかと考え直す。どうせ降りる気も無いのだ。当ても無い、旅のための旅なのだし。

 誰も人がいないのだからマナーなど気にすることもない。座席に膝をたてて窓を向いて座り、外の景色をぼんやりと見つめたって気の咎めることはない……まぁ、外を見たところで灰色の海と灰色の雲が地平線まで続いているだけなのだが。
 そう気付いていながら僕がぼんやりと窓の外を眺めていると、急にトンネルに入り車内が暗くなった。

 そんな時に、
 窓の端に人影が映ったりする。

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 ごおっ、風が抜けた音がして明るくなった。トンネルを抜けた。

 僕が振り返ると、反対側の座席の隅、僕と向かい合わせにあたる席に、少女が座っている。
 目を向けてすぐ、彼女が季節外れに薄い服を着ている事に違和感を覚えた。白くて、ノースリーブで、膝丈のワンピース。窓から見えるねずみ色の雲海を背景に見るととても寒々しい。
 次に目に入ったのは顔だ。彼女の顔の鼻梁の上半分から眉の辺りまでは、丁度鉢巻きを額から目の辺りにずらした風に(或いは眼帯のように)、ワンピースよりも幾分くすんだ白の包帯でぐるぐると覆われている。隠された目があるであろう――或いはあるべきはずの――場所は、血のような液体で紅く染まっていた。あれはなんだろう、怪我をしたものか、そうでなければ目を抉りでもしたものか…後者だとすると随分痛ましい光景だが、やはり夢なのであまり深くは気にしない。

 そして最後に気がついたのが、彼女の左腕が手錠で座席端のポールに繋がれている事だった。

「――その辺りに、キィが落ちていませんか」
 彼女は鈴のような声で言った。彼女がふらふらと指した右手、その先の床の上に、銀色シルバーの鍵が一つ落ちている。
「この、銀色の奴の事かな」
 応えながら僕はしゃがみ込んで鍵を拾った。大きなものではないが、傷のつき具合からするとかなり旧いものではあるようだ。見た目よりも幾らか重い。
「ありましたか?銀の鍵なら間違いありません」
 彼女は嬉しそうに頷く。
「すみませんが、それでこの手錠を外して下さい。何時間も繋がれていたので腕も疲れてしまって困ってるんです」 「何時間も?」僕は問い返そうとした。「だって君はたった今……、」
 そこまで口にして、これは夢なのだとふっと思い出した。突然少女が現れた程度、突然電車に揺られていることに比べればなんの不思議があろうか。

 僕は少女の手錠を外してやりながら考える。
 夢というのは本来、起きている間の記憶を整理するためにレム睡眠時に見るものだという。夢の中でどんなに突拍子もない事が起きていたところで、それは、夢を見ている自分の頭の中にあるものがシャッフルされて出てくるものには違い無いというわけだ。
 では、彼女は僕の中の何処からやって来たのだろうか。
 能動的に想像力を働かせたなら、かつて体験したことのないようなこと、見たことのないもの、自然の想起の外にあるような物を幻視するようなこともあるかもしれない。が、――手錠を填められ、目隠しをされ、目を抉られた少女など、僕は頭の片隅にさえ夢想した覚えは無い。
 或いは。
 ――遥かな深層心理イドの深みから?

「ほら、外れたよ」
 手錠が彼女の手首から離れ、ポールにがちゃりと垂れ下がった。少女は右手で左の手首に恐々と触れ、痛みからか少し強ばる。長い間繋がれていたせいで内出血しているようで、白い肌に赤い輪が浮き出ていた。……健康的な絵面じゃないな、と僕は声を出さずに苦笑した。これが僕の深層心理から浮かび上がってきた光景なら、僕は一体、奥底ではどんな人間なのだ。
「ありがとうございました。これで旅路が少し楽になりました」
 少女は僕がいる方向に顔を向け、微笑みながら頭を下げた。その笑みの可愛らしさに僕は不意を突かれた……物々しい包帯にばかり気を取られていたが、白い肌、赤らんだ頬、やや面長な輪郭、薄く紅い唇、小さいが高い鼻などを改めて見ると、彼女はなかなかの美少女であるようだった。目を見ることの叶わないのが悔やまれる。
「いや、それはいいんだけど。君は一体……何で、そんな出で立ちで此処に?」
 僕は尋ねた。此処は何処なんだい、とか、この電車は何処へ向かっているの、だとか尋ねてもよかったのかもしれないが、それではあんまり無粋だと思い直したのだ。行き先の無い旅の方が面白い。
「私ですか?」少女の首が傾ぐ。「少し話が長くなるかも知れませんが、構いませんか?」
「構わないよ。僕も風景があまりにも変わらないものだから退屈して――あ、」
僕は応えかけて躊躇った。目隠しをされた彼女に景色の話をするのも無神経過ぎるのでは無いか。
しかし、彼女も僕の躊躇の理由には気付いたようでありながら、
「……あぁ、気にすることはありません。目を抉ったのは私を護るための手段なのですから」
と、さらさらと返した。その様はいっそ無邪気だ。 「……やっぱり、その目は」
「ええ。スプーンをこう、突き立てて。自分で」
少女は手振りしながら、きらきらと笑む。
「普通は家長がするものなのですが、私が父にどうしてもと。だって、だってやっと贄になれるのですもの! ああ、語り継がれる先達の贄達も私と同じ気持ちだったのでしょうか。彼女たちは私たちにとっては殆ど遠いおとぎ話だけれど、同じく贄となろうとしている私は今、ここにいるのです。彼方のお人の贄に選ばれるという事はとても名誉なことで」
「いやいや、ちょっと待ってよ」僕は彼女の口上を制した。
「ニエってなんだい? 生贄イケニエ? 君が?」
「…あぁ、済みません。興奮してしまいました」

「私は、

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 私は、《彼方の人イオグソトト》と呼ばれるお方の生贄として選ばれた者です。私の生まれた土地では何十年かに一度、私のように産まれたときから彼の贄として定められている女性がいて、その女性たちが彼に身を捧げることで土地、国、ひいては世界や宇宙を守っていると言われています。《彼方の人》は荒神あらがみで、この宇宙ちつじょの外に生き、この宇宙ちつじょそのものに憎悪を抱いていますが、それは彼が太古という言葉が陳腐に思えるほどの過去、もしかすると時間という時空の存在さえも怪しいような、或いはこの宇宙が始まるよりも前から、この宇宙を創った神に対して悲しい恨みを抱いているせいなのです。その因縁や彼の恨みについて語ることはこの宇宙そのものについて語ることかもしれませんのでここでは語り切れませんが、その恨みたるや人間ごときに図り知れるものでは無いとだけ述べておきましょう。ともかく彼のその名状しがたいまでの怒りを宥めるべく贄が選ばれ、産湯に浸かるより前から、彼の舌の上で一生を終えるという運命へ身を投げ出すことになるのです。
 私は彼のために産まれ、彼のために死ぬために、十四までの人生を生きてきました。今日死ぬという使命のために生きてきました。気高い彼に焦がれ、生きてきました。
 今日の朝方、彼の下へと続く電車がやって来ました。この電車には車掌はいません。無人で走り、無人で寂れた駅に止まり、電車は私を待っていました。私は身支度のため、まず質素で綺麗な服に着替えました。彼は人間の嗜好を下劣と卑下しているので、派手な服装だと喰べて下さらないのです。次に目を抉りました。彼の眼を見てしまうと、人間は彼のあまりにも強い意志と彼の生きてきた永劫のような年月を察し、気が触れて血を噴いて死んでしまうからです。贄は生きていなければなりません。そして最後に電車に乗る時、贄が逃げ出さないようにと縛り付けておくという風習に則って自分で手錠で左手と手すりとを繋ぎました。しかし何れにせよ贄は気高き彼の舌で果てることを焦がれるもの、あまつさえ彼を目前に死の恐怖を感じて逃げ出すなどということは全く頭にはありません。この手錠をかけたのは父や母や皆を安心させるため、ただそれだけのためでしたので、私は鍵をそっと父の懐から抜き取り、電車が出た後にこの手錠も外すつもりだったのですが、御覧の通りで目も見えず鍵穴をもぞもぞと探しているうちに鍵は私の手を零れてしまったのです。そうして長い間電車に揺られ、途方に暮れている処に貴方が現れて鍵を拾ってくださったというわけです。
 貴方がどの様な因果でこの電車に乗ったかは私には分かりませんが――そして貴方も分かってはいらっしゃらないようではありますが、それが何であるにしろ貴方も気にかけてはいらっしゃらないようですし、私も別段気には致しません。電車もそろそろ彼の下に着く頃ですから、

 ここで共に死ぬのも、縁ということなのでしょう。

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 共に死ぬ貴方の顔を見られないのは心残りではありますが、共に死出の旅を逝きましょう」

――僕は、自らのイドの在り様に殆ど絶望を感じていた。  突然電車に揺られて、そこで突然瞳を抉られた(いや、抉った、が正しいのか)美しい少女に出会い、その少女は自分は外宇宙の神アウターゴッドに身を捧げる人身御供だと言いだす。僕は一体全体何を考えているのだ。
 とはいえこれも夢。
 ここまで見た夢ならば、いっそこのまま夢に揺られてしまおう。
「……そうか。ところでその《彼方の人》の下には、あとどのくらいで着くんだい?」
 少女は僕の質問に首を傾げた。

「もう、着いていますよ」

 突然悪臭がした。鼻を刺す悪臭だ。僕はそこでやっと、電車が再び暗闇の中にあることに気がついた。
 トンネルか? いや、何かが蠢いて、
 窓の外に、無数たくさん
 瞳、
 が?

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「――うぁ、」

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 目が覚めた。
 酷い夢を見た。
 いや、何処から夢だったのだろう。最初はただ夢想していただけだったはずだ。
 少女に出会うまではまだ眠ってはいなかったような気がするが、少女の姿はもう夢の中で見たのでは無かったろうか。……いや、そうするとあの在り様は全て僕の深層心理イドの中で生み出されたものなのか? 矢張り一度病院にでも行ったほうがいいのだろうか。
 などと考えていて、
 僕は、突然別のことに思い至って愕然とした。

――夢の中で臭いを嗅ぐなんてことが、果してあるだろうか。


 がたん、ごとん。遠くで電車のおとがする。

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全然関係ないけどうちのサークルでは毎年必ず一つは目ん玉えぐる話があるってジンクスがあるんですって。
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