仲牟田圭次郎雨中に焦燥す

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 じわりと雨の気配のする、梅雨のある日の午後六時過ぎ。日も暮れ出しいよいよ暗くなりだした曇天の中、圭次郎が雑務を終え、帰路に着くべく乾いた傘を片手に校舎裏の駐車場に向かうと、一人の生徒が圭次郎の黒い軽乗用車の隣で手持ち無沙汰気に立っていた。圭次郎は右眉を上げ少し苦い顔をして、大股気味に歩き寄った。
「あ、お疲れ圭次郎サン」生徒はやや俯いていた顔を上げ、やんわりと微笑い、若いくせ妙に色気のあるハスキーな声で、圭次郎に労いの声をかけた。口の端からは飴でも咥えているのか、細い白い棒が突き出ていて喋る度にもごもごと動く。「こっちは今来たとこだよ」
「恋人じゃねぇンだから……呼んじゃいないし待ち合わせもした覚えもないぜ。お出迎えは有難いけどよ、部に行く気もないんならとっとと帰れよ。……いや、そもそも今日は登校自体きちんとしたのか?」
 圭次郎は生徒に矢継ぎ早に問いただした。教師としてであろうが、だらしない、年若い友人に対してと言うような風でもあった。

 仲牟田圭次郎(なかむた けいじろう)は公立高校教師である。二年生の或るクラスの副担任で、歳は二十九、独身であり恋人もここ暫くいない。
 顔は不器量でもなく、長身で手足も長いためスタイルは良い。ただし、大きい二重の眼は黒目が小さい四白眼(しはくがん)で、唇は少しばかり厚いため、正面から見た全体的な風貌は細長くしたカエルのようであった。また、聡明にして高学歴であるためにプライドの高い所のあるのや、容易には看過し難い口の悪さ――きついブラックジョークを良く好む――、及び彼自身の(前述のような性格の男性によくあることだが)若干の女嫌いや理想の高さも、通常の女性を寄せ付けない理由であるだろう。
 人物評の総評に代えて付け加えると、いつ頃からか生徒らから囁かれる愛称は「国語科のドクガエル先生」――である。
 とはいえ国語科教師としてはなかなかに優秀であり、温厚でユーモアを解する性格故、男女問わず生徒からの人望もある。それはまぁ、無論満更ではない圭次郎だが、
 ――高校生の小便臭い餓鬼共にばッかりこんなに好かれてもネェ。
 という苦笑と嘆息もまた、無論のものであった。

 生徒との会話に場面を戻す。
「来ようと思ったけど(言いながら生徒は飴を口から取り出した。白とピンクのマーブルの丸いキャンディだった)、なんだかんだで諦めたんだよ……や、眠くて」
「眠気かい」圭次郎呆れかえった声で、「理由があるならなんだかんだだの紛らわしいこと言うなよ。理由にもなっとらんけど」
「でしょう。理由になってないからなァって」
「お前ね……」
「いや本当、来ようと思ったんだけどもさ。寝坊してモノ食べて、人に会ってってしてたら四時になってて」
「人に会うなよ。何の人だ」
「えー……と。プライヴェートの。そしたらこの雲模様じゃない? でさ、俺が傘持ってきてないから、ここで待ってたら、そのう」
 生徒はキャンディを右手に持って逡巡するようにくるくると振る。圭次郎は元より看破していたような結論を明確に認識する。久しくなかった、恋人の心理を見透かした時の心地がした。何らかを言いたげな態度で車の前にいる……というのは、まぁ。つまり。
「送れってな」
「……良ければ」
「あァもう、それだけ聞けばよかったよ……」圭次郎は右手で少し頭を掻いて運転席へ回った。「もういい。乗れよ」

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 ここで生徒について説明をするが、まずその生徒は制服を着ていなかった。これは、そもそも圭次郎の学校は私服登校を許可しているので問題ではないのだが、目につくのはその服装それ自体である。
 百六十cmあるか無しか程の身長のその生徒は、栗色の髪を右側頭部ででちょんと結わえた短いサイドテール、上下山吹色の甚兵衛に黄色いサンダル履きという、言うなら素行のいまいち良くない娘が夏祭りに行くような様相。しかしそれらを裏切るように丸く幼い顔の小さな鼻にかかるのは黒い下フレームの眼鏡、更に裏切ることにはその奥には釣り気味の三白眼、ふっくらした唇は飴の白い棒を煙草のように咥えてやや「ヘ」の字に曲がっている。
 この生徒の名前は織部水神(おりべ すいじん)。圭次郎が副担任を受け持つクラスの生徒だが、精神薄弱等の理由から保健室登校にして不登校気味の――しかし何故か圭次郎に懐いている――、男子生徒、である。

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「しかしこないだ買ったッつって傘見せて来たばっかりだろうが、(あか)い、骨の多い、番傘みたいなやつ……縁が濃い灰色の。アレを忘れたのか」
 圭次郎は自車を正門から走り出させてから助手席の織部を見た。丁度小雨が降り出したのでワイパーを動かす。
「あ、アレ? あー……風が吹いて壊れちゃったんだよ。高かったのに。忘れたのはもっとやっすいビニール傘」織部は飴を咥えたままもごまごと応えた。
「はァん……晴れの日に持ってきて雨の日に壊れてるとは、ま、災難だったな。中々センスのいい奴だったが」
「だろだろ」
「おい謙遜をしろよ。それで? お前んちは何処だ。あンまり遠いとガソリン代取るぞ」
「おー、あーあー。自宅はちょっと遠いから友達ンとこまで送って欲しいんだけどいいスか、今街の駅の近くにいるみたいだから……駅まで行ってくれたらそこから道説明する」
「あー? あそこか、まぁ近いんならいいわ。……えーと、その友達っつーのは」
「……一応、そうだよ」妙にぶっきらぼうに言う。「女だけど。少なくとも身体は。珍しくっていうか……うまが合う奴なんだ」
「――あ、そう」
 圭次郎は複雑な心境で言った。あまり突かれたい場所ではなかったンだろうと悟るが、もう少し掘り下げてやらないといかんなという使命感も芽生えた。
「男も女もそういう……付き合いばっかりなのか、お前の友達」
「ちげぇーよ。同じくらいは何もないのいる」
「普通は『同じくらい』もいねェんだよ」
「……別に普通になりたいわけでもないし、身体にも気を付けてやってるよ。病気も無い」
「ン……そうかい。気を付けろよ」
 結局苦笑して追及を止め、左手を伸ばして丸い頭をポンと叩いた。
織部こいつが餓鬼なりに苦労しているのは察している。自立出来ていない奴だとも踏んでいないし、人を不用意に傷つけるような人間でもないという確信もあった。
「気を付けるよ」――織部が憂い気に目を細めたのを、しかし圭次郎は右折中に見逃した。「……うん、そうだね」

 暫し会話がないまま車は走った。飴が砕ける音が、雨音に交じって響いた。

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 雨は遂に本降りになったようである。視界が水滴で煙り、圭次郎は大きな眼を何度か瞬かせた。
「気が滅入るような雨だな」
「そ? 俺は好きだよ、閉鎖的で」
「あァ、目に見えてじめじめしてるしな……俺はもっと太陽の下にいたいタイプなんでな」
 茶化す圭次郎。十何分ぶりかの会話である。いつの間にか織部はスマートフォンを取出し何事かを入力している。
「別に圭次郎サンも明るくないでしょう、そもそも『ドクガエル』でしょ」
「あー、あのあだ名か? それだって俺が名乗ったわけじゃねェだろう」
「あ、そうなの? センスいいと思ったんだけどね」
 圭次郎は窓側にずっこける様な仕草を取る。横断歩道前、赤信号で黒く小さな車もまたずっこけた様に急に止まった。ミラーに映る後続車は遠い。助手席の織部の身体も跳ねたが、当人は特に動じない。
「はァー? おいおい、だァれがギョロ目だとかたらこ唇だとか舌の長いのだとかわざわざセンス良く自慢すンだよ。カエルの忍者かなんかか俺は」
「ほ?」織部が気の抜けた声を挙げて顔を持ち上げた。圭次郎が振り向き、目が合う。
「……なンだぃ」「お、なるほど」
「なンなんだよ……」「いや、違うのを聞いてたから」
「違うのって……何だよ」信号が青になる。圭次郎、前を向いてアクセルを踏む。
「え、名前、」白くふかふかした指が宙を泳ぎ文字を書いて、「『仲』の字から『中』を取ってきて、『ム』とくっつけて『虫』だろ? それをまた『圭』とくっつけて『蛙』だ」
「あン……?」圭次郎は怪訝な顔をしたが、ややあって理解が追い付き、細く節くれ立った指が同じく泳いだ。
「あー、あーあーあー。おーぉ」
「ダブルミーニングだったんだねェ」
「上手いこと考える餓鬼がいるもんだ……はァん。悔しいな」
「餓鬼なりに考えるもんさ、そういうのは」
「解ったような事を」圭次郎が笑う。
「……考える餓鬼の事は、考える餓鬼が一番解るよ」
「んー? ふぅン、まぁそうさな、それは……」
 そうだろうな、と言おうとして、フロントガラスの隅に反射した山吹色の姿をふと見た。二の句が告げなくなる。
「――どしたの」
 濡れた(こえ)。スマートフォンは膝に置かれているのだろうか。ぼやけた山吹の影は灰色の町に映え、身体を半身に横向け、首を少し傾げ、運転席の自分を見つめている。明らかに。
 振り向かない。振り向けない。前方を見つつ、運転は半ば自動操縦状態にある。悪寒がした。
「あ、あぁいや、」「何よ」
「コエー顔してるぞ、お前」意を決した発言である。「酔ったか?」
「……あー、車? そうでもないけど。煙草吸ってないからかな」
「はッ、教師の前でタバコの話する高校生があるかよバカ」
 鼻で笑い、啓次郎は改めて雨に濡れた路面や対向車を見据えた。内心の安堵を自覚はしている。
「あれっ知らなかったっけ、煙草吸うの」
「知ってら。お前が話したろ。知っててもそういうのは言うもんじゃないんだよ、推して許してやってンだから」
「まぁね」ちらと見ると、織部は前を向いてにたり、という風に嗤っていた。声にも先程の濡れた空気は無い。
「飴はもう無いのか、さっき咥えてたやつ」
「あれだけだよ。先に会ってきたやつから貰ってきたんだ、煙草切れて辛つらかろって」
「そうか。俺は煙草吸わんから解らんけど、ニコチンは飴で誤魔化せるのか?」
「ん……人によるかンなァ。とりあえず俺はね……口寂しさで吸ったりするんだよね。だから飴チャン口の中にあったら気が紛れる。あ、キスとかでも紛れるな」
「最後の情報は要らん、俺は教え子のンな話聞きたかないぞォ」圭次郎は周囲をキョロキョロと見て、早口で言った。「さぁてそろそろ駅だが。こっから何処行くんだ?」
「圭次郎サン、ベロ長いんだって? それは知らなかった。ずっと見てたのに。何処まで届くの? 喉?」
「話を聞け。そもそもなんで喉に」。誰のだよ「、じゃなくてだ、何処へ行くんだ」
「このまま真っ直ぐ行って会館を右行って真っ直ぐ真っ直ぐ真っ直ぐ行こう」
「話を聞け」。会話をしろ。行こうじゃねぇよ駅の近くっつったろお前そっちン先に何があるのか大人は知ってるんだ。そして、お前は大人じゃないんだ。「いいか? そろそろ怒るぞ」
「何でさ? だめ?」
「何がだ」
「――いや、何でもないけど。それより何で駅前でエンジン止めたの?」

 はっとする。
 目の前に織部の顔があって、仰け反る。「イッ」拍子にガラスに頭を打った。その頭の後ろすれすれを白い車が通り過ぎる。ロータリーだ。髪の毛越しに雨の冷気が伝わる。
「……だいじょぶ?」「あ――ああ。疲れてるんだよ」
圭次郎は嘆息した。げっそりと憔悴している。背凭れに身体を横たえるように戻し、無言でまたエンジンをかけた。
「あー……。で、どう行くんだ」
「このまま真っ直ぐ行って会館を右行って」「てめェ」
「すぐのマンションだよ」「よし」

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 日もいよいよ暮れようとする、薄暗い雨中。路上駐車して高そうなマンションのフロントホールに入ると、傘を右手に持ったセーラー服の影が立っていた。圭次郎と織部の学校の指定制服である。黒い豊かな髪が細い身体に付いてくるその女生徒を、圭次郎も知っていた。
「お帰り水神すーちゃん学校行ったの? 授業出た? 飴ちゃん食べた? あと……なんでドクガエル先生いんの」
「学校には来てたし授業には出てないし俺は送迎係だ」
 答えたのは圭次郎である。「そして友人ってお前か凪澤(なぎさわ)、お前はお前で今日風邪で授業休んだんだろが。何でここにいるんだ……あと本人の前でドクガエル言うな」
「んっ、風邪が治ったので!」凪澤(はじめ)は快活に応えた。白く薄い頬に笑窪が浮かぶ。「のでーちょっと用あって友人の家に。お気遣い有難う御座います、すいません小テストさぼりたかったわけじゃないんですけど」
「あ、そォ」圭次郎は呆れて見せただけで済ませた。
 ――明らかな“探るな”のサインだ。容姿は綺麗だがやけに人を喰うオーラを出すこの生徒を圭次郎は気にはしていたが、クラス担任の生徒でも無いので詮索した事はない。
「送って貰った」織部はぺたぺたとサンダルで歩いて凪澤の横に寄り、何も言わず右手を差し出す。
「ん?」「傘を。俺が差したい気分だから」「あぁー。んん」
 鼻にかかった声で凪澤が応え、朱くて骨の多い、縁が濃い灰色の傘を織部に突き出した。
「何でわざわざあたしんちに来て置いてったの。そしてメールして持って来さすの。忘れてったの? 雨の日に?」
「出た時は降って無かったろ」「んー? 明らかに降りそうだったし天気予報見てたじゃんよ二人で……あ、」
 そこまで言って凪澤は、腰に左手を当てて右で眉間を揉む国語科教師に気付いたらしい。
「アー……先生、良かったッスね」
「なァにがだ」
 圭次郎は最早完全に不機嫌な声を出した。久しくなかった、恋人の心理を見透かした時の心地……、
「……悪夢を見そうだよ俺は」
「はじめ、帰るの電車でいいか?」
 織部はいつの間にか玄関を出ていて、屋根の外に向けてバスッと音を立てて傘を開いた。
「お? おう……そうね」凪澤が走り寄ろうとして、振り返る。「あ、先生。さよならですお疲れ様デス」
「おー。うん」強がって笑って手を振った。「じゃあな」
 すると、山吹色も雨中に、番傘を持ったまま振り返った。
「じゃあね。また明日」目を細めて緩く微笑み、手を振る。
「あー」うんうん。強いて手を振り返す。「また……明日な。授業出ろよ」
「うん」

 朱い番傘が遠くなったのを見計らう。圭次郎は右手で少し頭を掻いて、深呼吸して山吹色の残像をぎょろ眼から追い出し、黒い自車に向かって雨の中へ駆け出した。

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色気とか荒んだ学生とか書きたいじゃない。書きました。
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